今、 黙ってたらアカン戦争法案絶対反対
馬来徳重さん(本部理事)に聞く
安全保障関連法案(以下、戦争法案)について、6月22日共同通信社の調査で反対55%、賛成29%に見られるように、世論が今国会での成立に反対多数とな ってきています。それにもかかわらず、安倍政権は会期を大幅に延期して戦争法案を成立させようとしています。戦争を知る世代である馬来さんに太平洋戦争当 時のことを語っていただきました。
食べ物がなくひもじい毎日
太平洋戦争が始まった昭和16年、私は小学生でした。戦争が進むに従い、楽しみだった夜店がなくなり、甘いものが手に入らなくなって行きました。食料を 始めとする生活品が配られたチケットを使って品物と交換する配給制となりました。配給品のお酒が販売される日、父と一緒に天王寺の近鉄アサヒビール前で、 並んで、限られた数量を買うという経験もしました。学校に弁当を持っていくと盗まれました。学校でも、教師が生徒に指示して食べられる草を取って来て校庭に集 め、代用食となる草を選びました。芋がお米の替わりとなり、お茶碗に箸が立たないしゃぶしゃぶの雑炊を常食にしていました。父と一緒に南海阪海線で堺市浜寺に 行き、海水を一升瓶に汲んで持ち帰り、ワカメと一緒に煮て染み出た汁を醤油の代用にしました。一番辛かったのは、焼き芋、コーリャン、豆ガスなどの代用食を食 べるものの、お腹が空いて仕方がないことでした。いつもひもじい思いをしていました。
そのうち、食べ物だけでなく街から、なべ、釜など武器を作るのに供出するようになりました。橋の欄干の鉄までなくなりました。
空襲に怯え逃げ惑う
最初、破竹の勢いで瞬く間に東南アジアを占領した日本軍ですが、太平洋の島々でアメリカ軍の反撃が始まると状況が一変しました。サイパン島、硫黄島などで 日本軍が全滅して、アメリカ軍が占領した島の飛行基地からB29爆撃機や戦闘機が日本へ飛んでくるようになりました。
それまでの食べるものがない、ひもじい生活に加えて、命の危険にさらされる生活となりました。パイロットの顔が見えるほど、低空で飛んで市民を狙って機銃掃射 する米軍のグラマン戦闘機のため、私たちは道の真ん中を歩けませんでした。
また、空襲でB29が焼夷弾を落とす際、雨音のようなザーという音を忘れることができません。昭和20年3月13日に270機ものB29による大阪大空襲の時は、住んでいた 生野区林寺から今の平野区東部市場の方へ必死で逃げ助かりました。
後方支援は戦争そのもの
今、国会で議論されている憲法を変えないでできる、アメリカの要請があれば戦闘地域外で後方支援ができるという法案は、戦争への参加そのものです。 輸送に係わるのは戦争です。戦争に使う武器、弾薬、兵隊を運ぶのに後方支援だから安全と言えるのですか。太平洋戦争中は輸送船が沈められ多くの人が死にまし た。憲法9条という枠にはめて平和を守らなければいけません。
(2015年7月)